【追悼】ルース・スレンチェンスカ ピアニスト 101歳
掲載: 2026年04月24日 12:00
セルゲイ・ラフマニノフの存命する最後の弟子であった、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストのルース・スレンチェンスカさんが、90年という驚異的なキャリアに幕を閉じ、101歳で亡くなりました。謹んでご冥福をお祈りいたします。
プロフィール
ルース・スレンチェンスカ(1925~2026)はヴァイオリニストである父親よりピアノを学び、4歳でリサイタル・デビューし「モーツァルト以来最も輝かしい神童」と称賛されました。5歳でカーティス音楽院に学び、1931年、6歳でベルリン・デビュー。ヨゼフ・ホフマン、アルフレッド・コルトー、アルトゥール・シュナーベル、エゴン・ペトリ、セルゲイ・ラフマニノフなどの錚々たる巨匠たちに認められ、教えを受けました。とくにコルトーには7歳から14歳まで、7年間指導を受けたとのことです。
しかし彼女は父親による一日9時間もの虐待的なトレーニングにずっと反感を抱いていていました。そして15歳の時に「機械的」、「未熟」という新聞の酷評を受けたことをきっかけに、自ら演奏活動を停止します。父親に反抗するように、カリフォルニア大学の入試に合格して自立への道を歩み始めました。大学在学中の教授のアシスタントとしてのピアノ演奏や、修道院の音楽教師のアルバイトをしているうちに、再びピアニストとして見出されました。
バッハ・フェスティバルでの10年ぶりの演奏が大きな反響を呼び、アルトゥール・ルービンシュタインやアーサー・フィードラーなどの励ましもあって、本格的に演奏家としてカムバックしました。そして、第2次大戦の傷跡が残るドイツを訪れた際の演奏で、自らのピアノにより聴衆を励ますことができることを実感し、「芸術家としての使命の自覚に目覚めた」と、彼女は語っています。旧ソ連と日本を除くクラシック音楽マーケットの主要各国へ演奏旅行を行いながら、1950年代後半にはアメリカ・デッカ社と専属契約を結んでLPレコードを10数枚リリースするなど、精力的な演奏活動を続けました。
この間、1962年1月にはサンフランシスコ交響楽団の創立50年記念シーズンの一環としてハチャトゥリアンのピアノ協奏曲を演奏しました。当初、ハチャトゥリアンが指揮をする予定でしたがキャンセルとなり、当時26歳の小澤征爾に白羽の矢が立ちました。これが北米デビューとなった小澤征爾の指揮は素晴らしく、その後、1970年、弱冠35歳での音楽監督就任に繋がりました。

スレンチェンスカと小澤征爾(当時のパンフレット)
30代後半までに3,000回ものコンサートをこなしてきた彼女ですが、1963年に過労のため胃潰瘍となり、2度目となる演奏活動の停止を決断します。1964年には、第一線での演奏活動に見切りをつけ、サウス・イリノイ大学で教鞭を取る道を選び、1987年に退任するまで世界中から集まった生徒たちを教え、同時に彼らから慕われました。
1999年に夫と死別。彼女の大変な落ち込みようを心配した台湾の教え子が台北に誘い、2002年に台湾の大学で、客員教授として再び教鞭をとることとなりました。学生のレッスンの前に必ず数時間、指のウォーミングアップをしたところ、指の力が少しずつ戻り、彼女は台湾で演奏活動を再開。2003年1月、台北で彼女の演奏を聴いた岡山県の歯科医師でチェロ奏者の三船文彰氏が驚嘆したことをきっかけとして、2003年4月に日本での初演奏が実現しました。そして、2017年に至るまでの彼女の岡山での録音は8組のCDに収められ、何れもレコード芸術誌の特選、または準特選盤を獲得するなど、高い評価を受けています。
2018年4月21日には93歳で初のサントリーホール・リサイタルを開催し、満員の聴衆に大きな感動を与え、そのライヴ盤(ルース・スレンチェンスカの芸術 IX~サントリーホール・リサイタル)は レコード芸術誌2019年1月号の特選盤に輝きました。2020年に再来日が予定されましたが、コロナ禍のため実現しなかったのは残念でした。2021年には彼女が1957~63年に録音した『アメリカ・デッカ録音全集』(10枚組)にまとめられ、デッカへの約60年ぶりの新録音『マイ・ライフ・イン・ミュージック』がリリースされるなど、世界的な再評価の波が訪れ、その晩年は栄誉に包まれていました。近年は体調を崩し、カリフォルニア州の高齢者施設に入っていましたが、BBC放送によると2026年4月22日、彼女は友人たちに見守られながら「穏やかに旅立った」ということです。
(タワーレコード 商品統括部 板倉重雄)
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