曽我部恵一
掲載: 2002年10月10日 17:00
更新: 2003年02月13日 10:48

いよいよ届けられた曽我部恵一のファースト・ソロ・アルバム。届いたそれぞれの秋の窓辺には、穏やかな風が流れることだろう。作品の深いところまで染み込んでいるメロウネスが、本当に優しく肌に触れてくる。
「そのへんが前とちょっと違いますよね。ある意味、結構エグいというか」。
東京・リキッドルームでのサニーデイ・サービス電撃解散ライヴから1年9か月。レディメイド・インターナショナルからのファースト・ソロ・シングル“ギター”電撃リリースから9か月。結末が幸せかどうかなんて誰にもわからないことだけど、ひとすじの光がいま、ここに射している。あたかも火と雨をくぐりぬけてきたシンガー・ソングライターのようなインナー・ヴィジョン。まさに素描。それは、いままで世に感銘を与えてきた〈名盤〉と呼ばれるものに非常に近い端的な佇いを示している。
「最初だから本当に〈作り物〉は作れないなって。じゃあもう、いまの自分をそのまま出そうと。作り込もうかなとスタジオに入ったりもしたんだけど、なにかちょっと違う感じだったのでそれは全部ボツにして。もとにあった(自宅で制作した)原形のままの11曲です。だからスタジオに入るのはまだ先の話なんだろうなと思った。生命力溢れるっていうのとはね、ちょっと違ったかな。とにかくメッセージがそのまま出てるかどうかだけですね、これは」。
99年の『MUGEN』あたりから際立ってきたヴォーカリストとしての色めきや、増えたDJ活動からのフィードバックは?――そんな浅はかな予感はことごとく粉砕される。自身の本質を弾き語る表現者としてのリアリティーは、そうした視座からはあり得ない。そしてコアな内面を素直に表したいという意識が、風景や時間をピタリと止めていく。点描。そこがまた、旅の途中だった以前とは違う印象である。
「日記みたいな感じでしょ。だからひとつの体験として聴いてもらいたいなと。新しい切り口とかじゃなくて、実体験であってほしいと思うんですよね」。
シンプルな詞作に伴って音数も非常に少ない。これほど音数を絞ったレコードには、ここしばらく出会ってないかも知れない。
「核だけ見えていればいいと思うから。ただ、伴奏がなくて声とメロディーだけだと何か音楽として息苦しいところがあるから、アコースティック・ギターで伴奏つけてるってことなんですけど。それだけでもいいものがいちばんいいと思いますね、自分にとっては」。
揺るぎないものとしての人間の欲求や感情。そのソウルは絶対なくならないと信じているという。それが人を感動させたりものを動かしていく本来のパワーであると。だから自分はそういうふうに作ろうと思い、そういうものを出発点にしたと。歌い継ぐべき、そして聴き継がれるべきテーマやモチーフとして、これが至上だろう。
「で、これをロックンロールでやっているっていうヴィジョンでもっと高めたい。やっぱり、そこで歌っていかないと。音楽家としてではなく人間としての歌というところでやらざるを得ないですね」。
その心意気は間違いなくロックンロール的である。たとえそれが、結果としてとても穏やかなかたちで表れようとも。
「音楽になるときは美しいものであってほしいと思いますね。楽しい感覚が楽しい曲になったり、殺伐とした感情が殺伐とした曲になるのは当たり前だと思うんですよ。でも俺の場合、それは常に美しいものであってほしいなあと思ってるんですね。ディズニーの音楽とか、いにしえのハリウッドの優麗さ、(エラ・)フィッツジェラルドの感じとか、やっぱり好きなんですよ。裏にいろいろなものがあっても、それが表に大衆のものとして出て来るときには、すごい美しいものであるというか。聴く人はそこでなにかを感じ取るんだろうし。それが〈メロウ〉ってことじゃないかと思うんですけど」。
PROFILE
曽我部恵一
71年香川生まれ。大学在学中の92年にサニーデイ・サービスを結成し、95年にメジャー・デビュー。2000年12月に解散するまで、7枚のオリジナル・アルバムをリリースする。2001年12月に、小西康陽が主宰するレーベル、レディメイド・インターナショナルよりファースト・ソロ・シングル“ギター”を発表。2002年に入り、トリビュート・アルバムへの参加や、OO TELESAのアルバム『TWINKLE』のプロデュースを手掛けるかたわら、アルバム制作を進行。夏には〈FUJI ROCK FESTIVAL '02〉をはじめとする数本のライヴ・イヴェントに出演し、本格的始動をアピールする。このたび、待望のファースト・ソロ・アルバム『曽我部恵一』(ユニバーサルJ)がリリースされたばかり。


