Kenichiro Nishihara 『Rugged Mystic Jazz for TALISKER』
ジャジー・ヒップホップにメロディアスで柔らかな生演奏を織り込み、クラブ・ミュージックの枠を打ち破るポップな訴求力を備えたサウンドを作り上げてきたKenichiro Nishihara。セカンド・アルバム『LIFE』から1年足らずで送り出される新作『Rugged Mystic Jazz for TALISKER』は、アシッド・ジャズ~レア・グルーヴにいま改めて焦点を当てるなど、ジャジー・ヒップホップの〈その先〉を模索する意欲作に仕上がっている。デビューから新作までの歩みをたっぷりと訊いた。
ピアノを弾いて自由に作りたい
――キャリアの最初のところからお話を伺いたいんですが、96年にアパレル・ブランドのMILKBOYのショウの音楽を担当されてます。この時って、むちゃくちゃお若いですよね。
「高校生でした(笑)。藤原ヒロシさんがプロデューサーだったんですけど、プロではない若い子に音楽をやらせたらおもしろいんじゃないかっていう提案があったみたいで。それで友達に誘われて、やらせてもらうことになったんです。だから、全然プロフェッショナルな感じではなかったんですけどね。それがきっかけでいろんなファッションショーの音楽を作っていくうちに、なんとなくそれが仕事になっていきまして。そうやってたくさん仕事をしながら音楽を続けてきました」
――ひょんなきっかけで始められたことが、そのままお仕事になっていったんですね。
「とは言っても、決してスムーズにここまで来たわけじゃないんですけどね(笑)。でもまあ、なんとかやってこれたと思います」
――最初に手掛けた時のショウの音楽は、どういうものだったんですか?
「中学ではバンドをやってたんですけど、高校に行った頃にクラブ・ミュージックに出会って、ひとりでも音楽を作ることができるんだってわかったんです。それでサンプラーとかシーケンサーとか一通りの機材を揃えて、自分だけで作りはじめて。最初のショウでは、そうやって出来た曲を使いました。それ以降のショウでは選曲家として関わることも多かったですけど」
――最初からクラブ・ミュージックをベースにした音楽だったんですね。
「ええ。その時点ではミキサー主体で作っていくような、ダビーな音楽でした。当時はレコード屋さんの〈テクノ〉のコーナーにいろんな音楽があって、そこから影響を受けていたと思います。デトロイト・テクノがある一方で、DJ KRUSHさんみたいなアブストラクト・ヒップホップとか、その後にエレクトロニカと言われるようなものとかがゴッタ煮的に並んでるところにすごく魅力を感じていて」
――90年代半ばはテクノ・ブームでしたし、ジャンルとしてすごく勢いがありましたよね。
「そう思います。一方でヒップホップとかサンプリング主体の音楽も耳に入ってきていて。そのへんはほぼ同時期に聴きはじめました」
――ヒップホップも盛り上がってたし、高校生にも届きはじめる時期ですもんね。
「クラスでもちょっと軟弱なやつはテクノ聴いてて、いかついやつはヒップホップ聴いてるみたいな(笑)。で、お互いにミックス・テープを交換したりしてましたからね」
――同世代なのでその感じはよくわかります(笑)。
「あと、ジャズ・ピアノも始めたんですよ。最初はサンプリングばっかり使って音楽を作ってたんですけど、どうしても越えられない壁を感じてしまって。もっと自由に、ピアノを弾いて作りたいなと」
――プレイヤーとしての出発点も同時期なんですね。
「それ以前にバンドでギターはやってましたけど、鍵盤を始めたのはその頃です。ジャズなんかも聴きはじめましたし、音楽の情報が自分のなかに一気に入って来た時代でした」