インタビュー

冨田恵一 『冨田恵一 WORKS BEST ~ beautiful songs to remember ~』

 

冨田恵一_特集カバー

 

[ interview ]

気取りのないエレガンスと人肌のぬくもりを湛えた芳醇なメロディーとサウンド──キリンジ、NONA REEVES、MISIA、中島美嘉、平井堅、松任谷由実、Crystal Kay、AI、RIP SLYME……そして自身のセルフ・プロジェクト=冨田ラボなどを通じ、2000年代のジャパニーズ・ポップス・シーンに紛いなき足跡を残してきた作曲家/プロデューサー、冨田恵一。このたび届けられた『冨田恵一 WORKS BEST~beautiful songs to remember~』は、冨田恵一がこれまでに編んできた楽曲の選りすぐりでもあり、過去10年あまりにおけるジャパニーズ・ポップスの〈BEST〉でもある。

 

 

新鮮さを突き詰めて

 

──今回の『WORKS BEST』を聴かせていただいた率直な感想として、2000年代の日本の音楽シーンに冨田恵一という人がいて良かったなあと、しみじみ思いました。

「まあ、自分でやったものなので、それが2000年代の音楽にどんな作用を及ぼしたとかは自分自身で判断することもそれについて考えることもあまりなく、ただ、まとめて聴いてみて、予想はしていたんだけど、一貫したなにかは感じましたね。〈WORKS BEST〉をやろうという話はだいぶ前から決まっていたんですけど、最初は冨田ラボのベスト盤を作るのはどうだろうって話でね。でも、アルバムが3枚しかないのでそれはちょっと抵抗があるというか、5枚ぐらい出さないとアレじゃないかなと思っていて。でまあ、僕の仕事集で構成するのはどうかなってことになったわけですけど、その時に僕がうっすら思っていたのは、そういう物を作っても、わりとひとつのバンドとかユニットが作ってるような一貫性は聴いた人に感じてもらえるんじゃないかなって。寄せ集めのコンピレーションになる感じではなく、言葉どおり〈WORKS〉の〈BEST〉にはなるだろうと思ってはいましたね」

──収録されている曲は、もっとも古いものから新しいものまでの時間差をあまり感じさせずに並んでいますよね。

「そうですね、それは僕も思いました。いちばん古いのが94年の音源(MIKI fr CREOLE“東京の伝書鳩”)なので15年ぐらいの差があるんですけど、歌回りの処理とかで若干時代を感じさせたり、その時のマイブームや音楽界の全体的な空気も反映されているので、そういったもので時代は特定できるとは思うんですけど、にしては15年でなにがどう変わっていったとかはそんなに感じないですよね」

──でまあ、プロデューサー・冨田恵一の名前が知られはじめたのは、キリンジのデビューからということになりますが。

「97年にインディーでのデビュー盤(『キリンジ』)が出たと思うんですけど、〈Produced by 冨田恵一〉とクレジットされたのは、それが最初です。それまではアレンジャーとしての仕事が中心でしたし、プロデュースは何人かの連名でっていうのは数曲あるんですけど、個人の名前ではキリンジが最初ですね。それまで僕は個人としてのプロデューサーのキャリアがなくて、で、アレンジャーという立場でやっていた時に、自分が思うところまで到達させるためには、やっぱりプロデューサーという立場にならなければいけないということをすごく考えていたんです。やっぱりその、アレンジャーの立場ですと、あるところまではコントロールできるんですが、最後の最後に……たとえば僕がデッドな音で作っていたものに、ディレクターなりプロデューサーがオニのようなデジタル・リヴァーヴをかけてしまうとか。でもその代わりオケには触ってないよっていう。だけども、別に僕はオケだけ作れればいいんじゃなくて、その音楽全体が僕の思うようにみなさんに響いてほしいっていう。歌につけるリヴァーヴの選び方ひとつで正反対になったりするので、それじゃ意味がない、それだったら全体にそういうふうにするとか、まあ、いろんなことがプロデューサーにならないとできないんだということを実感して、プロデュースのキャリアがないにも関わらず、仕事はプロデュースという形でしか受けないっていう体制を、キリンジとやりはじめる前あたりから取りはじめていたんですね。で、その頃に僕はMOVESというバンドをやっていて、その繋がりで同じレーベルから出そうとしていたキリンジの音源を担当の方からいただいたんです。プロデュースのやり方というのは、いろんなプロデューサーと仕事して……って言っても3、4人しかいないんですけど、この人のここは良かったなとか、ここはダメだったなとか、まあ、いろいろと学んではいたんで、そのへんを自分なりに考えながらプロデュースしていった感じなんですけど、キリンジはね、出た途端わりと驚かれたというかね、それは僕に対してというよりは、彼らの才能ってところが大きいのはもちろんなんですけど、それを聴いて、〈これはスゴイ!〉〈こういうのやりたい!〉って思ってくれた業界の人やミュージシャンたちが多かったことで、僕へのプロデュース依頼が増えていったんですよね」

──いきなり大ヒット曲を送り出して〈時の人〉になったわけではないんですよね。

「そうですね。でもまあ、僕も無責任といえば無責任というか、ヒットするとかしないとかじゃなくてね、その時に自分が新鮮であるものはきっとみんなにも新鮮だろう、そのためにはどんどん突き詰めて、せっかくプロデューサーというね、自分が最後までコントロールできる立場になったのだから、そこは妥協せずにやっていこうってことだけは決めたんですよね。そういったやり方と作品の内容が、音楽好きの人たちには〈一貫性〉として伝わったんじゃないかなあと、いまになって思いますけどね。売るためにはどうしたらいいだろうって考え方をしたことはないですから」

 

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掲載: 2011年03月02日 17:59

更新: 2011年03月02日 18:47

インタヴュー・文/久保田泰平