STARDUST REVUE 1981-2012(Part.1)
[ interview ]
日本屈指のライヴ・バンドとして知られ、ポップスの真髄を熟知した音楽集団であるSTARDUST REVUE。先頃デビュー30周年を記念した全国66か所73公演にも及ぶアニヴァーサリー・ツアーを終えた彼らが、通算34枚目のオリジナル・アルバム『B.O.N.D』を完成させ、9月にリリースすることになった。
そして新たな歴史を刻むために進みはじめた彼らを追うべく、フロントマンである根本要(ヴォーカル&ギター)に超ロング・インタヴューを敢行。それを4週に渡って紹介する。その第1回は、スタレビの〈80年代〉にフォーカス。81年にメジャー・デビューを果たし、“夢伝説”や“今夜だけきっと”といった代表曲を生み出して人気者への階段を駆け上がっていった時代だ。彼の少年期の音楽体験談やデビュー前のエピソードなども交えつつ、じっくりと振り返ってもらった。
映画「ウッドストック」がすべての始まり
――では、いちばん古い音楽体験の記憶から教えてください。
「小学校の頃、マンガの裏に広告があって、洋楽曲の入ったソノシートが通販で売っていたんですよ。それを兄貴が買って、何となく聴いてたのが初めての洋楽体験。小学校3、4年生ぐらいからビートルズも聴きはじめて、早熟な子でしたね。“She Loves You”か“Ticket To Ride”あたりからリアルタイムで聴いていましたよ。当時流行っていた洋楽ヒット曲も自然と覚えましたね。1番上の兄貴がビートルズ派で、2番目の兄貴はストーンズ派。GSで言えば1番上がザ・タイガースで、2番目はゴールデン・カップスだったから、ホント何でも聴いてましたね」
――ああ、白人系/黒人系と、タイプがちゃんと別れていたと。
「いま考えると実に理想的な環境だったと思うわけです。ついこの間、兄貴たちと呑んだとき、分け隔てなく聴けていたのは俺たちのおかげだって話をされたばかりですよ。男3人と女1人の兄弟だったんだけども、兄貴たちと結託して僕が小学5年生ぐらいのときにエレキ・ギターを買ってもらいました。教則本の最初に載っていた“荒城の月”も弾けないのに、僕はエリック・クラプトンに憧れて、クリームの“Spoonful”のリフをマネするようになる。いわゆるブリティッシュ・ブルースですね。そうやってロックにのめり込んでいきました」
――バンドを組むのはいつになるんですか?
「バンド・デビューは中学2年のとき。兄貴たちのバンドに入ったんです。フリーとかグランド・ファンク・レイルロードのようなハード・ロックをコピーしてました。僕は中1で映画〈ウッドストック〉と出会ったのですが、そこでロックの基盤となるすべてを学んだような気がしますね。でも学校に行っても、映画のなかで大好きになったザ・フーとかジミ・ヘンドリックスとかテン・イヤーズ・アフターは、誰も知らないし楽器もない。そこで、これなら!と思ったのが、クロスビー・スティルス&ナッシュ。アコギでもロックができる!と思ったんですね。それでアコギを持っている友達をバンドに引き入れて。当時はフォーク全盛の時代だけど、そんななかでガロとかも流行り出した時代だったから、〈あのガロのルーツだよ〉ってクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングやアメリカなどをコピーしてましたね」
――ある意味で水と油のような音楽って気もしますが。
「僕のなかではいっしょだった。映画〈ウッドストック〉に当てはめると、アカペラで歌うジョーン・バエズもギターをぶっ壊すザ・フーも同じ世界の音楽だったんですね。ロックかフォークか、エレキなのかアコギなのか関係なく、同じマインドを感じたんですね。」
――なるほど。全部並列に捉えることができたと。
「で、僕の中学校は理解があったというかユルかったというか、学校のなかで普通にコンサートをやらせてくれたんです。土曜日の朝の生徒集会のとき、僕は生徒会長さんだったので(笑)、勝手に〈今日はコンサートです、みんなでいっしょに歌いましょう!〉とか言って、邦楽だと古井戸の“さなえちゃん”や上条恒彦の“出発の歌”、洋楽だと映画〈小さな恋のメロディ〉で使われていたクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの“Teach Your Children”や、当時CMに使われてた洋楽とか、みんなが知ってそうな曲を選んで。お客さん……いや生徒が(笑)、〈これ聴いたことある!〉って結構ウケてたような気がするんですけど(笑)」
――それは確かに自由ですね。
「そのうちに僕らもオリジナルを作るようになって、僕は知らなかったんだけど、そのテープを友達がニッポン放送に送ってたんだ。〈バイタリス・フォーク・ビレッジ〉っていう全国規模のコンテスト。その友達が突然〈根本くんたちの音楽が昨日ラジオで流れたんだよ〉って聴かせてくれて。あれはビックリしたな。かまやつひろしさんが〈このバンドは中学生らしいんだけど、ガロみたいなコーラスやるよ〉って言って僕らの曲を流した。なんじゃこりゃ!?ですよ(笑)。そしたら、次はスタジオ審査です、ってハガキが来ちゃってね。埼玉の田舎育ちの僕らはニッポン放送がどこにあるかもわかんない。いまだに覚えてるんだけど、みんなと有楽町で降りて、お巡りさんに〈ニッポン放送どこですか?〉って訊いたら、〈ここだよ〉って目の前を指差された(笑)。で、そこのスタジオ審査もすんなり通っちゃって、次は関東甲信越大会。あり得ないことに僕らはそこでも勝っちゃったんです」
――へ~!
「決戦大会の会場は日比谷野音。確か高校に入ったばかりの4月の最初の土曜日。入学して2日目か3日目だった。うちの高校は埼玉では結構な進学校だったけど、僕は担任の田代先生に、こういうコンテストがあるんで早退させてくれ、って頼んだの。そしたら先生が……なんで、こんなにはっきり覚えているかというと、実は先日高校の同窓会があってね、久しぶりにお会いした田代先生から〈僕は根本くんに謝らなければならないことがある。君が入学してすぐのとき、土曜日に早退させてくれって言われて、僕は行くな!って答えたんだよな。まさか君がこんな職業に就くとは思わなかったから、いまだに申し訳ないことをしたって思ってるんだよ〉って謝りにきてくれたわけ。でね、僕は〈先生、そんなこと思わないでください! あのとき僕は腹痛で早退して会場に行きましたから〉って(笑)。〈そうか、やっぱり行ったのか!〉って笑って許してくださいました」
――(笑)。
「でもその大会では全然ダメだったんです。やっぱり悔しかったし、それで僕は、自分の好きな音楽を全部詰め込めるようにリズム隊を加えることにしたんです。高校で出会ったベースの柿沼清史とその友達のドラマー入れて、ハーモニーを交えたハード・ロックをやるようになるんですね」