(純)邦楽が耳慣れないのと同じく、それは反転したエキゾチシズムである。
《月》(2006)
(純)邦楽が耳慣れないのと同じく、それは反転したエキゾチシズムである。
賢明なことでつとに知られる本誌読者はお気づきかもしれませんが、トランスワークの名称はトランス・ミュージックに由来する。書には「臨書」という、古典的な名筆を“模倣”しながら形象だけでなく能筆の運動や思想まで体得せんとするやり方があるが、いまにいたるまで臨書をおこたらない柿沼の身体をつくった反復という手法が彼にひとつの画面に文字を集中させたのか、音楽がそう仕向けたのか、おそらく明確な線引きのできない、歴史と現在が織りなす身体が柿沼康二というアーティストの本領にちがいない。とはいえそれは葛藤をも意味する。気を抜くと歴史は制度となり暗躍する。書において柿沼康二が異端とされるなら、彼を異端にしておくそっちのほうが異端じゃないかというのは素人のいいぐさかもしれないが、文壇、詩壇、俳壇、画壇、音楽にだって業界というものがあり、制度から逃げ切るのは容易ではない。しかも書は近代(西洋)化のあおりを食って、形式が伝統のなかにかこいこまれた。多くの音楽ファンにとって(純)邦楽が耳慣れないのと同じく、それは反転したエキゾチシズムである。その意味で、2006年から翌年までの米プリンストン大学での客員書家の体験が柿沼の転機になったのは示唆的であるといわざるをえない。冒頭の発言にある井上有一や、柿沼の師匠のひとりである手島右卿が出品した1957年のサンパウロ・ビエンナーレが抽象表現主義の世界的な流行だけでなく、書とアンフォルメルの接近の契機になったように、書はつねに発見される可能性を秘めているが、そこに問題がなかったわけではない、と柿沼康二は指摘する。
「昭和20年代に字を解体した書家がいっぱい出てきたんです。文字をぶっ壊して黒々と塗りつぶしたり、点だけで表現したり、筆や墨じゃない道具を使い始めたり。僕もそこに再びメスを入れるという選択肢もあったが、そうしたら逃げることになると思ったんです。その当時の前衛書家のひとたちは最初から字を書く気がなかったりしています。だったら、アクション・ペインティングとか、絵と言えばいいし、それらをもって書とか芸術だというのは逃げだと思ったんです」
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