インタビュー

書であるのか絵であるのか。そのどれかであるのか。



柿沼康二04
《命》(2002)



書であるのか絵であるのか。そのどれかであるのか。

宮川淳が1963年に発表したあの「アンフォルメル以後」で指摘したような形式の否定(テロル)の先の隘路が書にもあったことを柿沼の発言は裏づけるが、そもそも形と意味をもつ文字の芸術である書は20世紀以後のアートの潮流に二重に洗われたともいえる。絵画には、否定が伝達の回路を経て、やがて次の形式に向かうまでの間に、まだ名づけられないしあわせな状態があるのだとしても、書はいかに文字を解体したところで文字を書くにはちがいない。であれば、書であるという留保をつけて、書をもてあそぶより、小島信夫が井上有一について述べたように「書であるのか絵であるのか。そのどれかであるのか。そうではなくて、書であってしかも絵であるのか。私たちが誰でも日常書いている文字というものの、書というものの尻尾をひきずっているのが、美術であるといえるのだろうか。」(『X氏との対話』)というおおもとの問いかけに踏みとどまるべきではないか。

何よりもそのことを思ったのは、本展の第6室。壁面を覆う長辺が10メートルを超す巨大な《不死鳥》と《行行》に対面したときだった。マチエールというにはあまりに素朴で荒々しい墨の跡が黒々と隆々とした「不」の一画目の横棒、翼を広げた鳥に見える「死」のハライとハネ、三文字の集合が意味とイメージを同時に伝えてくるだけでなく、この場にこの作品のある必然性を鑑賞者は思わないわけにはいかない。

「どこまででかくなっても筆と墨と紙を使ったのは書たるゆえんです。僕は今回、現代アーティストとしてデビューなんですよ(笑)。あるアスペクトからすればじっさいそうなんですが、僕の本音としては、書は現代アートとしてもとらえられる。または書というカテゴリー全体がアートととらえられなくても、僕の作品は現代アートたりえる、ということなんです。僕の作品の中には時に過去の前衛書のように見えるものもあるので、そちらのソースを強調しすぎると新しくもないし誤解も生む。すべての文字性を書の規範をぶっ壊して、これがアートとしての書だというひともいますからね。僕にしかできないというのはどこまででかくなっても書の歴史に立脚した文字性と美観、自然観、有機的な運動感をもって「今」を表現することだと思うんです」

書でありアートであることの狭間で「もがき」ながら柿沼康二の書の道をつきつめること。

「答えをつくらない、ゴールをつくらない、わりきらない。そういった意識はずっともち続けていますね」

名をなした書家でありながらデビューだというのはあながち謙遜でもなさそうである。



柿沼康二(かきぬま・こうじ)
1970年栃木県矢板市生まれ。5歳より筆を持ち、柿沼翠流(父)、手島右卿、上松一條に師事。東京学芸大学教育学部芸術科(書道)卒業。2006-2007年、米国プリンストン大学客員書家を務める。2012年春の東久邇宮文化褒賞、第1回矢板市市民栄誉賞、第4回手島右卿賞。独立書展特選、独立書人団50周年記念賞、毎日書道展毎日賞(2回)等受賞多数。NHK大河ドラマ「風林火山」(2007)、北野武監督映画「アキレスと亀」、角川映画「最後の忠臣蔵」等の題字の他、「九州大学」「九州大学病院」名盤用作品等を揮毫。現在、柿沼事務所代表取締役社長兼所属アーティスト/書家。



EXHIBITION INFORMATION


柿沼康二 書の道 “ぱーっ”
KOJI KAKINUMA Exploring Caligraphy

会期:2014/3/2(日)まで開催中!
開場時間:10:00〜18:00(金・土曜日は20:00まで)
※チケットの販売は閉場30分前まで
休場日:毎週月曜日(ただし、12/23、1/13、2/10は開場)、12/24、12/29〜1/1、1/14
会場:金沢21世紀美術
www.kanazawa21.jp/ 



カテゴリ : インタヴュー

掲載: 2013年12月24日 10:00

ソース: intoxicate vol.107(2013年12月10日発行号)

interview & text : 松村正人

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