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第5回 ─ 永遠の勝者、カートムの栄光

連載
IN THE SHADOW OF SOUL
公開
2005/05/19   13:00
更新
2005/05/19   14:20
ソース
『bounce』 264号(2005/4/25)
テキスト
文/林 剛

シカゴ・ソウルをベースに、時代のグルーヴを奏で続けたレーベル

 レーベル・ロゴに刻み込まれた〈We're A Winner〉の文字。これはインプレッションズがABC時代後期に残した曲のタイトルでもあるが、ブラック・パワーの台頭に呼応したその曲がR&Bチャートで1位となった68年にカートムは設立された。カートムとは、レーベル設立者のカーティス・メイフィールドとエディ・トーマスの名前をアレンジ(Cur+Tom)したもの。これはもともと古くからの友人同士であった両名が60年に立ち上げた音楽出版社の名称なのだという。その後、カーティスはウィンディCやメイフィールドといったレーベルを、一方のエディはトーマスというレーベルをそれぞれ興し、それぞれの試行錯誤が実を結んでカートム設立へと至った。

  それにしてもいきなりの勝利宣言。だが本当にカートムは当時のインディペンデント・レーベルのなかではウィナーだったとも言える。拠点はシカゴで、最初の配給元はブッダ。ダニー・ハサウェイもスタッフとして名を連ねていた設立当初のカートムは、カーティス率いるインプレッションズを筆頭格にメッセージ色の濃い楽曲を放っていたことで知られている。

 そんな初期カートムの急先鋒的なカラーは、70年代中期あたりまでのカーティスのソロ作にも受け継がれていくが、カーティスの後釜としてインプレッションズに加入したリロイ・ハトソンが同社の音楽的なブレーンとなりはじめた72年頃からは、サウンドも穏やかでメロウな感触のものへと変化していく。リロイが手掛けたナチュラル・フォーなどはその好例で、この変化はアレンジャーがジョニー・ペイトからリッチ・テューホに交代したことも大きい。それにもうひとつ、ソロ活動で多忙を極めるカーティスを援護する格好で副社長にマーヴ・ステュアート(アメリカン・ブリードなどを手掛けていた人物)が就任したことも多少は影響しているのだろう。ジョセフ“ラッキー”スコット、フィル・アップチャーチ、クイントン・ジョセフ、マスター・ヘンリー・ギブソンといった演奏陣も定着し、裏方としてエド・タウンゼントらも招かれ、70年代のカートムは新たな個性を確立していくことになる。

  こうなると、そんなカートムの音を求めて外部からカートム・スタジオにやってくる動きも活発化。ジョーンズ・ガールズが一時カートム入りしたのをはじめ、グラディス・ナイト&ザ・ピップスやステイプル・シンガーズ、アレサ・フランクリンなどがカーティスのプロデュースでブラック・ムーヴィーのサントラを作ったりもした。75年には配給元をワーナーに変えていたカートムだが、この2年ほど前にはジェミゴというサブ・レーベルも発足させており、そこからはノーテイションズらが登場している。

 ただ、リンダ・クリフォードがヒットを放った77年頃からカートムにもディスコの波が押し寄せ、RSO傘下に置かれるようになった79年頃には、もはや〈シカゴのレーベル〉というカラーは薄まっていた。もっともそれは音楽的な質の低下を意味するものではないが、フレッド・ウェズリーのヒットが出た80年、カートムはかねてからの財政難などが祟って倒産してしまう。

 けれど、話はここで終わらない。その後、地道にソロ活動を続けていたカーティスは、88年に移住先のアトランタを拠点としてイチバン配給の元でカートムを再興したのである。90年にはアルバム『Take It To The Street』もリリース……と、ライヴ中の照明器具落下事故はそんな矢先の出来事だった。以降、半身不随になったカーティスは、96年の『New World Order』で劇的な復活を見せるも、99年末には帰らぬ人に……。寂しいけれど、でもカートムの勝利の音はいつだってわれわれリスナーを温かく出迎えてくれる。楽しみはこれからも続くのだ。