先鋭化と多角化を進めていった70年代、その終わりと新たな始まり……
黒人レーベルとしての機能を徐々に高めていったスタックスのミニ・ストーリーも今回が最終回。もっとも、黒人レーベルと言えど、その陰では白人のロックやポップスのレコードも制作されていたのだが、72年、クライヴ・デイヴィスの指揮するCBS(コロムビア)を味方につけた頃のスタックスは、米国社会や音楽界における黒人意識の高まりをますます無視できなくなっていたようだ。
それは社長のジム・スチュアートが会社の実権をアル・ベルに委ねたことで決定的なものとなる。アルは黒人活動家のジェシー・ジャクソン師と連携を深めるなどし、社内も尖鋭的なムードに変化していったという。加えてドン・デイヴィスが制作に参入したあたりから、MG'sを率いたブッカーT・ジョーンズがLAに移り、録音もアラバマのマッスル・ショールズで行われることが増えるなど、メンフィス色は後退。ルーファス&カーラのトーマス親子のようにメンフィスの薫りを残す者もいたが、アイザック・ヘイズはニュー・ソウル路線を進み、フレデリック・ナイトのような社会派シンガーも台頭しはじめ、新しい流れが築かれていく。ランス・アレン・グループが属した(ゴスペル・)トゥルース、ジェシー・ジャクソン師のスピーチ作品を出したリスペクトといった主張を持つ傍系レーベルの躍進も社内の先鋭化を伝える動きだったと言えよう。一方で、コメディーを扱うレーベルのパーティーからは、74年にリチャード・プライアーの漫談盤が発表されてもいる。
そんな当時のスタックスを象徴した出来事こそ、65年の〈ワッツ暴動〉にかこつけて、72年8月にLAのメモリアル・コロシアムで行われた音楽祭だろう。翌73年に「ワッツタックス」としてドキュメンタリー形式で映画公開されたそれには、ステイプル・シンガーズをはじめとする当時のスタックスのスターが総出演。同社が配給していたレーベル=ココのルーサー・イングラム(今年3月に他界)の名唱シーンなども忘れ難いが、ジェシー・ジャクソン師の宣誓やキム・ウェストンによる黒人国歌熱唱など、随所で〈ブラックの誇り〉を強調したその演出は当時の社風を印象づけるもので、実に映画公開の目的もそこにあった。
そうしたなか、ドラマティックスをはじめ、マッド・ラッズやソウル・チルドレン、テンプリーズといったヴォーカル・グループ、また男性デュオのメル&ティムらがロマンティックなラヴソングを歌っていたことも、それはそれで忘れられない。74年にはシャーリー・ブラウンの名バラード“Woman To Woman”も誕生している。だが、73年にクライヴ・デイヴィスがCBS社長を解任されたあたりからスタックスは財政面でピンチを迎え、裁判などに時間を費やし、音楽の創造は二の次になっていたという。その結果ヒットも減り、元MG'sのアル・ジャクソンが射殺されるという悲劇から数か月後、76年1月にスタックスはその幕を下ろしてしまう……と、少し前まではここで話が終わっていたが、物語には続きが用意されていた。そう、コンコードの配給で30年ぶりにレーベルが復活したのだ。レイラ・ハサウェイやエンダンビ、リオン・ウェアも、あの〈指スナップ〉ロゴを手に入れたと聞く。過去の遺産を三度噛み締めつつ、新しい動きも見守っていきたいものだ。