革新的なサウンドと大胆なセンスで一時代を築き上げた野心家、ノーマン・ホイットフィールドが天に召された。自身の音楽性をモータウンの体制下で貫いた男、ファンク時代を先取りしていた天才プロデューサー──今回は彼の名仕事を振り返ってみよう
モータウンに革命をもたらした男が、去る9月16日、来年のレーベル創立50周年を目前にしてこの世を去った。ノーマン・ホイットフィールド。41年生まれという生年を信じるなら享年67歳。ソングライター/プロデューサーとして数々のヒットを生み出した彼は、野心家で大胆不敵、物静かだが頑固者、スタジオでは独裁者のように振る舞ったなど、豪胆なエピソードには事欠かない人物だった。
出身はNYのハーレム。地元では有名なプール・プレイヤーだったようだが、10代後半、親戚の葬儀のために家族でカリフォルニアに行き、NYに戻る途中で父の運転する車がデトロイトで故障したため、そのまま住みついたという。デトロイトでは18歳の頃から地元レーベルのセルマで裏方として活動。が、モータウンに憧れて同社オフィスに通い詰めた結果、社長のベリー・ゴーディに品質管理部(レコードの試聴)の仕事を任され、作曲にも携わるようになっていく。それが60年代初頭のことだ。プロデューサーとしてもマーヴェレッツやヴェルヴェレッツなどを手掛けはじめたノーマンだが、この時に彼が狙っていたのはテンプテーションズの仕事だった。64年に何度か楽曲提供をしたものの、当時のテンプスはスモーキー・ロビンソンと結束していたため、ノーマンはスモーキーからその地位を奪うことに執念を燃やしていたという。
そんな野心家に大役が回ってきたのは66年。テンプスの“Ain't Too Proud To Beg”を手掛け、それがヒットしたことでテンプスのブレーンとなるのだ。また、この頃からバレット・ストロングとのコンビで曲を書くようになった彼は、グラディス・ナイト&ザ・ピップスやマーヴィン・ゲイが大ヒットさせた“I Heard It Through The Grapevine”で一躍時の人に。モータウン特有の硬質なビートに黒くブッといグルーヴを注入した、ファンキーで男気溢れるサウンドは独特の異彩を放った。だが、それもまだ序の口。ノーマンは当時のシーンを席巻していたスライ・ストーンの音楽に触発され、そのサウンドを徹底的に研究して、よりファンク~ロック色を強調したソウル・ミュージックを作り上げる。そこで誕生した楽曲こそ、68年にテンプスが放った“Cloud Nine”だった。
黒煙を噴き上げて疾走する蒸気機関車のように激しくへヴィーなサウンドは〈サイケデリック・ソウル〉と呼ばれ、デニス・エドワーズをリードに据えたグループの新たな門出に貢献。賛否はあったが、社会情勢や流行をいち早く察知して作り上げた革新的な楽曲群は、同じくテンプスの“Papa Was A Rollin' Stone”が全米No.1に輝いた頃には、すっかり世に定着していた。その歩み方は、現代で言えばティンバランドに近いのかもしれない。一方で“Just My Imagination(Running Away With Me)”のようなドリーミーで美しいバラードも、これまたノーマンの十八番だった。勢いに乗る彼は、アンディスピューテッド・トゥルースやエドウィン・スター、レア・アースらにもヒットを献上。まさに王国を築き上げたわけだが、その専制君主的な振る舞いが災いしてか、やがてテンプス、さらにはモータウンとも訣別してしまう。
それでもタダでは転ばぬノーマンは、サントラ『Car Wash』(76年)などを手掛けて、ふたたびトップに君臨。加えて、同作に参加していたローズ・ロイスをはじめ、ナイトロやマスターピースといったグループを自身のレーベルであるホイットフィールドから輩出していく。ディスコ時代を上手く乗り切ったかに見えた……が、流石のノーマンも80年代に入ったあたりから失速しはじめ、レーベルも閉鎖。83年にはテンプスの“Sail Away”を手掛けて再度モータウンと関係を持つものの、映画「The Last Dragon」(85年)の主題歌制作を最後に第一線からは姿を消してしまうこととなった。けれど、そのイノヴェイティヴなセンスは唯一無二。次々と新たなサウンドが誕生してくる現在聴いても、ノーマンの音楽はズッシリと腹の底に響いてくる。ドラゴンの雄叫びのように。