
『レヒニッツ(皆殺しの天使)』©Arno Declair
ことばから「ことばの彼方」へ
20世紀は映像の時代であり、映画の時代だったといわれる。だが一方で、演劇は常に人間とともにあった。演劇がことばと肉体を操るわざだから、ではない。むしろそこに宿る再現への欲望そのものが人類と知性を駆動してきたのだ。
フェスティバル/トーキョー a.k.a. F/T。東京にいながら世界の演劇の最先端にふれうる絶好の機会がまたやってくる。上演される作品の多くが、「芸術のための芸術」を超え、社会へ、現在へと肉薄するものであることもスタート以来の大きな特徴だ。リミニ・プロトコルが、カステルッチが、飴屋法水が、演劇界の話題をさらったことはいまだ記憶に新しい。といって、もちろん社会的なメッセージを
もっていればOKなんてなまぬるいものでもない。そこには常に、演劇とは何かという問いかけと実践がある。その問いをどのようにして問うか、どのようなかたちで問うかが問題なのだ。
では、今われわれはどのようにその問いを発するのか? 昨年の福島での事故を通過しながらも、少なからぬ人々がそのことに目をつぶろうとしているわれわれは?
F/T12のテーマは、「ことばの彼方へ」と銘打たれている。「ことばの彼方」とはどこにあるのか。そこには何があるのか。いや、それは現在にふさわしい問いの立て方とはいえない。「ことばの彼方」とは、ことばの(そして演劇の)物質性、歴史性、政治性を問うスタンス以外のものではないはずだからだ。以下のプログラムは、当然のようにそのコンセプトを忠実に反映したものになっている。
今年のF/T 主催プログラムの目玉が、ハイナー・ミュラーの手法を継ぐノーベル賞作家、エルフリーデ・イェリネクの三作品連続上演であることに異論を挟むものはないだろう。F/T09春でも「雲。家。」が上演されたイェリネクは、政治的であると同時に言語実験的な作品を作り続け、過激さではなく、いつまでも後をひく違和感をもって観客を挑発する。演出を担当するのは、イェリネク解釈の第一人者、ヨッシ・ヴィーラー、地点の三浦基、Port Bの高山明。まずは、ルイス・ブニュエルの『皆殺しの天使』に想を得、ヨーロッパでセンセーションを巻き起こした『レヒニッツ(皆殺しの天使)』に要注目だが、わが『intoxicate』としては(!)、イェリネクが3.11に応答するようにして書いた『光のない。』で、「中部電力芸術宣言」を執筆した三輪眞弘が音楽監督を務めているのが目に留まる。演出の三浦基とのコラボにはいやがおうにも期待が高まるところだ。さらにその続編といえる『光のない II』で高山明が計画しているという(フィクショナルな)「福島ツアー」という響きも、こちらの想像をかきたてずにはおかない。
3.11に対する日本からの視点を提示しようとするのが、松田正隆と村川拓也、そして勅使川原三郎といえるかもしれない。マレビトの会を率いる松田は、『アンティゴネーへの旅の記録とその上演』で、題名どおり、埋葬と法をテーマとするギリシャ悲劇『アンティゴネー』を手がかりに、ふたつの「上演」を行おうとする。ひとつ目は東京から福島へ向かう「移動する演劇」であり、もうひとつは今回行われる、その「再現ドラマ」だ。昨年の公募プログラムで注目された村川拓也は、新作『言葉』で震災後のことばのありようを会話劇でとらえることを目指す。民俗学者・宮本常一ファンの村川が現実からどんなことばを拾いだすか、今から楽しみだ。勅使川原三郎は、91年に初演(94年改訂)された『DAH-DAH-SKO-DAH-DAH』の再演で、ダンスによって「東北」へと迫る。タイトルの元になっているのはもちろん宮澤賢治。20年という歳月と震災を経て、このふたりはどんなふうに出会い直すのだろうか。