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『黛敏郎個展-涅槃交響曲へ至る道-』と『黛敏郎 日活ジャズセレクション』の2タイトル発売!

黛敏郎個展-涅槃交響曲へ至る道-②

2016年に東京オペラシティで行ったコンサート『黛敏郎個展-涅槃交響曲へ至る道-』のライヴCD。黛敏郎が東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学してすぐに書いた作品から1955年作曲の“六重奏曲”まで、パリ留学を経て鐘の響き“涅槃交響曲”へ至るまでの重要作を辿ります。
そして日活映画で黛敏郎が作曲した61作の映画BGMから、現存する1502トラックの音源より厳選されたジャズセレクションの2タイトルを発売いたします。

黛敏郎個展 ―涅槃交響曲へ至る道―について

黛敏郎(まゆずみ・としろう/1929-1997)は、今こそ再評価されるべき作曲家である。黛は戦後の作曲界で、ひときわ異彩を放ち、国際的評価を受け、数々の作曲家を触発した。そして、日本音楽界の牽引役としてトップを走った。
ジャズを取り入れた現代音楽、最新の電子音楽の発表、音響解析によるオーケストラ音楽など…。天才にしか為し得ない音楽に誰もが憧れた。
三島由紀夫、安部公房、モーリス・ベジャールも、黛とのコラボレーションから名作を生み出した。美空ひばりや石原裕次郎のために映画の主題歌も作り、アカデミー賞映画「天地創造」(1966)や市川崑監督の映画「東京オリンピック」の音楽を作曲して世界で知られ、ミュージカルやオペラも書いた。野球やプロレスのテーマ音楽として使われた「スポーツ行進曲」など誰もが知る曲も書いた。現在も続くテレビ番組「題名のない音楽会」の初代司会者でもあった。
その最高傑作は、お寺の鐘の音を音響解析して、3群のオーケストラで鳴らした「涅槃交響曲」(1958)とされる。合唱にお経を歌わせ、ホール全体が揺れるような梵鐘の響きから涅槃へ至るお経の唱和まで、アジアの作曲家にとってオーケストラ音楽を書くとはどういうことか? という問題に対してひとつの答えを出した。
しかし、この曲のインパクトが強すぎて、他の作品まで語られにくいのが現状である。黛敏郎は「涅槃」だけではない!
「黛敏郎個展―涅槃交響曲へ至る道―」は、黛敏郎が東京音楽学校(現在の東京藝術大学)に入学してすぐに書いた作品から、パリ留学を経て鐘の響き「涅槃交響曲」へ至るまでの重要作をたどる。ベテランのゲストを迎え、これからの日本の音楽界を担う、若い演奏家たちとともに…。
(スリーシェルズ)
【曲目】
黛敏郎:
1.Elegie
2.-3.Hors-d'uvre(オール・デウーヴル)ドラム付き
4.-8.Sphenogrammes(スフェノグラム/楔形文字) 1951年ISCM国際音楽祭入選作
9.-12.六重奏曲 大原美術館25周年記念委嘱彦
13.a ma nouvelle femme Ouverture et Musique d'entee pour la noce(我が新婦に捧ぐー結婚式のための序曲と入場音楽)
14/-17.DIVERTIMENTO pour 10 instruments(10楽器のためのディヴェルティメント)東京音楽学校卒業作品
【演奏】
水戸博之(指揮)
オーケストラト・リプティーク
ピアノソロ:若林千春
ソプラノ:飯島香織
フルートソロ:向井理絵
ドラムス:大家一将
ハープ(特別出演):篠﨑史子
企画・選曲・解説:西耕一
録音・マスタリング:磯部英彬(スリーシェルズ)
デザイン:橘川琢
【録音】
2016年6月10日東京オペラシティにて収録

【曲目について】

1948年の歌曲「エレジー」は、謎の作品である。
演奏履歴がまったく不明であり、黛作品のなかでも現在残る最初期の歌曲である。その後に、オペラやミュージカルも作曲して、石原裕次郎や美空ひばりへ映画主題歌も作曲した黛敏郎にとっての最初の歌曲がどのようなものであったかを検証することは、価値あることであろう。「涅槃交響曲」も「声」を使った作品であるとすると、「エレジー」は黛にとって習作を除いて最古の「声」を使った作品でもあるのだ。歌は日本歌曲からオペラまで幅広く歌い、日本のオペラについての研究でも知られる飯島香織による。ピアノは若林千春。

1947年のピアノソロ曲「オールデゥーブル」は18歳のアヴァンギャルドな天才が刻まれている。
黛自身がピアノを弾いて東京音楽学校で初演したもの。進駐軍のクラブなどでジャズピアノを弾いていた経験も反映されたジャジーでダンサブルなピアノ曲である。早熟な才能と型にはまらない発想が聴き取れる。この曲は、一般にはピアノソロとして知られているものであるが、実際にはドラムの伴奏付きピアノ曲として完成されており、理由は不明だがドラムパートは演奏されずにこれまで埋もれていた。音楽プロデューサーの西耕一が「オールデゥーブル」の自筆譜を検証した結果、ドラムパートの存在が判明した。この録音が世界初演となる。非常に刺激的な演奏による初演となり、作曲家の渡辺宙明からも絶賛を浴びた。

1950年作曲の「スフェノグラム」(ソプラノとアンサンブルのための)は、黛が国際的に認められた最初の作品である。
1951年の第25回国際現代音楽祭(ISCM)のフランクフルト大会で数多くの出品作から選ばれ、日本代表として上演された。黛の音楽志向をアジアへと広げてくれた師匠伊福部昭との出会いを経た作品となる。北方を自己の源泉とする伊福部に対し、黛敏郎は、南方への憧憬、東南アジア由来の音素材と民謡の融合、さらにはジャズ、現代音楽と掛け合わせる。作品は、「プロローグ」「ジャワの歌」「スレンドロ」「憑かれたコブラのビーバップ」「インドの典礼」の5つからなり、黛敏郎の異彩を放つ如き天才ぶりが聴き取れる。海外ではもちろん、日本での演奏も数少なく、今回の再演は日本では1998年以来となる。黛敏郎の知られざる傑作であり、それまでの日本の作曲家とは違い、アプレゲールの波を象徴する作曲家として黛が認知されていくきっかけとなった。
ソプラノは飯島香織。ジャズ音楽からのエコーも強い黛にとって重要な楽器であるサックスにはフランスで学び、現代音楽のサックスプレイヤーとして評価も高い大石将紀。マリンバは現代音楽の打楽器奏者として活躍する若手の會田瑞樹、そしてオーケストラ・トリプティークのコンサートマスター三宅政弘、トップメンバーの向井理絵、任キョンア、ピアノには若林千春、若林かをりを迎えた。
編成: ソプラノとフルート,サックス,マリンバ,ヴァイオリン,チェロ,4手ピアノ

1955年作曲の「六重奏曲」は大原美術館25周年記念の委嘱作である。
黛は、この曲で12音技法を使用している。12音を使うと無味乾燥な音楽と感じられやすい傾向にあるが、黛の手にかかると雄々しく、活き活きとした音の充実感がある。12音技法を使おうとも、黛サウンドの横溢するエネルギーは確実に聴き取れる。この頃の黛は「トーンプレロマス」な響きを求めていた時代であり、張り詰め、横溢するエネルギーがついには梵鐘の響きへとつながっていく。曰く「音楽は叫びと祈り」。自己の存在を主張する「叫び」と人間の力ではどうしようもない現象に対する「祈り」。黛の音楽はそれらを融合させようと「涅槃交響曲」へ至り、その後も様々な形で音楽を変容させた。これらの指揮はすべて水戸博之(オーケストラ・トリプティーク常任指揮者)による。
編成:フルート(ピッコロ持ち替え)、クラリネット、バス・クラリネット、ホルン、トランペット、ピアノ

1953年作曲のa ma nouvelle femme Ouverture et Musique d'entee pour la noce(我が新婦に捧ぐー結婚式のための序曲と入場音楽)は、黛が自身の妻となる女性(当時売れっ子の女優であった桂木洋子)のために捧げた作品である。
黛と交友の深かった演奏家によって結婚式で上演されたと推測されるが、当時列席した人物の証言などは得られていない。三島由紀夫も出席したという黛の結婚式はどのような会であったのだろうか…。演奏履歴も不明な謎の曲が、今回はじめてコンサートで上演される。ハープには黛敏郎がハープ独奏曲「ROKUDAN」を献呈した篠﨑史子が特別に出演した。
編成:フルート、クラリネット、オーボエ、ファゴット、ホルン、トランペット、ハープ、ピアノ、ヴァイオリン、コントラバス

1948年作曲の「10楽器のための喜遊曲/ディヴェルティメント」は、黛19歳の作。
東京音楽学校卒業作品として演奏され、その後、読売新人演奏会やNHKで紹介され、1950年にはSPレコードとして録音発売された。東京音楽学校に天才黛敏郎あり!と名が知れ渡り、卒業作品の演奏会には都内の音楽ファンが集ったとの逸話も残る。しかし、これまで一度も楽譜が出版されず、演奏機会も数えるほどしかなかった。現在も使われるパート譜は「横濱交響楽団」の五線紙に書き写されたもの(黛敏郎は学生時代に横濱交響楽団のコントラバス奏者でもあった)。
今回は上演にあたり、当時の関係者へのリスニングも経た。
それによるとなんと、この曲の第2楽章には、その頃学内で初演されたばかりの、矢代秋雄のピアノ協奏曲の第2楽章の引用も入っているという。黛の洒脱とテクニック、池内友次郎が「本物の音楽家」だと形容した天賦の才能が聴き取れる。
編成:フルート,オーボエ,クラリネット,ファゴット,ホルン,トランペット,トロンボーン,ピアノ,ヴァイオリン,コントラバス

黛敏郎 日活ジャズセレクション

クラシック、現代音楽、電子音楽など様々なジャンルに精通する黛敏郎の映画音楽から
ジャズ的なフィーリングがきわだつトラックを選曲した。
ブルーコーツのピアニストとして活躍し、ジャズイディオムを活用した現代音楽を発表した黛らしい輝かしくもクールなジャズから、ユーモアあふれるダンスホール系ジャズまで幅広く収録。
これまで知られにくかったジャズメンとしてのマユズミがいま明らかになる!

『黛敏郎 日活ジャズSELECTION』について

このCDは、『幕末太陽傳』から『私が棄てた女』まで、時間でいえば1957年から1969年までの12年間に黛敏郎が担当した映画から集められた「黛ジャズ」が収録されている。
「黛敏郎」のジャズ作品集としてまとめているが、映画の内容をイメージしつつ聴くのも良し、「黛敏郎」を離れて、音楽だけの魅力を堪能してリスニング用としてカーステレオや携帯音楽プレーヤーで聴くも良し、ともかく聴いてスウィングして、ビートリズムに身を委ねて楽しめるようセレクションしたつもりである。とはいえ、時折、ジャズを逸脱する黛センスにも注目していただければと思う。
(スリーシェルズ)
【曲目】
黛敏郎:
01.幕末太陽傳 M-2-6
02.四季の愛欲 M-13-4
03.四季の愛欲 M-14-4
04.四季の愛欲 M-22・24A・26
05.続夫婦百景 M-13
06.続夫婦百景 M-17
07.果しなき欲望 M-3
08.不道徳教育講座 M-7
09.不道徳教育講座 M-18
10.才女気質 M-15-1
11.密会 M-1-2
12.密会 M-10
13.学生野郎と娘たち M-2-2
14.学生野郎と娘たち M-8
15.青年の樹 M-4-1
16.狂熱の季節 M-1-2
17.狂熱の季節 M-2-3
18.狂熱の季節 M-4-2
19.狂熱の季節 M-8-2
20.狂熱の季節 M-9-1
21.狂熱の季節 M-16-2
22.あした晴れるか M-6
23.あした晴れるか PS-101-1
24.豚と軍艦 M-2
25.豚と軍艦 M-12
26.あいつと私 M-14-1
27.憎いあンちくしょう M-3-1
28.憎いあンちくしょう M-10-3
29.当りや大将 M-11
30.若くて悪くて凄いこいつら M-2
31.若くて悪くて凄いこいつら M-5
32.若くて悪くて凄いこいつら M-14
33.泥だらけの純情 M-7
34.泥だらけの純情 M-14
35.何か面白いことないか M-2-2
36.月曜日のユカ M-1-1
37.月曜日のユカ M-12-2
38.黒い太陽 M-D
39.黒い太陽 M-F-2
40.私、違っているかしら M-10
41.私、違っているかしら M-21-3
42.愛と死の記録 M-19
43.アジア秘密警察 M-15
44.アジア秘密警察 M-23
45.非行少年 陽の出の叫び M-2-2
46.非行少年 陽の出の叫び M-6
47.経営学入門より ネオン太平記 M-4-1
48.経営学入門より ネオン太平記 M-19-2
49.私が棄てた女 M-2-1
50.私が棄てた女 M-5-1
51.アラブの嵐 M-5
52.アラブの嵐 M-30

※収録曲はマスターテープ劣化に起因するノイズがございます。御了承くださいませ。

企画構成解説:西耕一(スリーシェルズ)
マスタリング:仁木高史(スリーシェルズ)
デザイン:橘川琢
協力:日活、宇都宮弘之
原盤:日活株式会社(C)日活株式会社

黛敏郎とジャズについて

このCDは日活映画で黛敏郎(1929-1997)が音楽を担当した映画61作より、ジャズ的な要素が強い音楽をセレクションしたものである。黛敏郎はジャズだけでなく、電子音楽、ミュージカル、バレエ、シンフォニー、オペラ、歌謡曲など様々なジャンルへ作曲をしている。司会と企画構成を担当したテレビ番組『題名のない音楽会』は「ベートーヴェンから浪速節まで」とキャッチコピーがついていたほどに幅広い内容で毎週放送されていた。
黛敏郎の幅広い創作・活動ジャンルのなかでも「ジャズ」は特に重要な部分を担っている。東京藝大の前身である東京音楽学校の学生のころから、進駐軍のクラブでピアノを演奏していた経験は、その後の黛のさまざまな作品にも反映されている。1945年の終戦から解禁され、進駐軍と共に圧倒的に広がっていった「ジャズ」。それは新鮮かつ、若いエネルギーの象徴であったろう。黛敏郎自身も、その魅力に取りつかれ、ダンスホールに仲間と遊びに繰り出し、ジャズをエンジョイしていたし、ミュージシャンとしてもジャズオーケストラ「ブルーコーツ」に、ピアニストとして一年ほど在籍して、演奏・編曲などを担当して身体にジャズをなじませていた。その経験は実作にも反映されており、ジャズを取り入れた現代音楽を発表して、学生時代から注目された。たとえば18歳の黛敏郎が作曲したピアノとドラムスのための『オール・デウーヴル』(1947)はブギウギ、ルンバ、ラグタイムなどを斬新にとりいれたアヴァンギャルドなサウンドが知られる。これは、いまでも古びることない強烈な音楽である。同級生の矢代秋雄は「飛んでもない!」と驚きの感想を残している。いくら戦後の自由な時代とはいえ、日本のクラシック音楽界の牙城としてアカデミックの頂点を極めて、それを学び、普及させるはずの東京音楽学校の生徒が、それをぶち壊そうという音楽を作曲したわけだから、驚きだけでなく、周囲の反応も予想されよう。黛敏郎が自分で演奏したという初演では、会場から失笑も聴かれたという。しかし、黛敏郎はさらに奮起して、アヴァンギャルドの歩みを進める。その後の音楽学校卒業作品『10楽器のためのディヴェルティメント』(1948)でもジャズやラテンの要素をちりばめつつ、クラシック的な構成感ももって仕上げており、当時の日本クラシック界に鳴り物入りのデビューを果たした。この曲は、その後すぐにSPレコードにもなっており、若手作曲家としては異例の注目と活躍。「アプレゲール(戦後世代)の反逆児」と呼ばれたこともあった。東京音楽学校を卒業するとすぐに、フランスへ留学して、最新の現代音楽を学び、それと同時にシャンソンなどのポピュラー音楽も吸収して、本格的な活動を開始する。
帰国後には、現代音楽とジャズを融合させたオーケストラ作品としてラテン打楽器やサックスを大胆に取り入れ、ビッグバンドジャズの爆発的なエネルギーを管弦楽へ異化させた《饗宴》(1954)が知られている。アメリカで指揮者のバーンスタインが紹介して世界で話題を呼んだ。ちなみに「ウェストサイドストーリー」は1957年初演であり、黛敏郎からインスパイヤされたのではという話もある。《饗宴》と同じく、ジャズ語法を特化させた《トーンプレロマス55》(1955)では、オーケストラから弦楽器を排除して、それこそ完全にビッグバンドのホーンセクションを増強したようなマッチョかつ、ブリリアントなサウンドで聴き手を圧倒した。この《トーンプレロマス55》では、途中で当時流行した「マンボ」が引用される部分もあり、斬新なユーモアセンスにも驚かされる。

(スリーシェルズ)

カテゴリ : ニューリリース

掲載: 2017年04月10日 00:00