M.I.A. (UK Dance)
衝撃的なリズムとか、刺激的なライムとか、もう舌が慣れてしまったって? じゃあ、昨日のビートをさっさと片付けて、新しいM.I.A.の新しいサウンドを味わいな!!
自分のストーリーを歩みたい
2005年、驚きと賞賛をもって迎えられたM.I.A.のファースト・アルバム『Arular』。振り返ってみれば、この作品の影響力には凄まじいものがありました。スリランカ出身の女性MCがロンドンから発信したビートとライムは、南米や日本で本国以上の注目を集め、M.I.A.はUSヒップホップ界やトリニダードのソカ界でも一目置かれる〈異端のMC〉に。そして、この快進撃によって数多のキーワードが猛スピードで浸透し、2007年夏に至るまでのトレンド──ディプロ~バイリ・ファンキ~ボルティモア・ブレイクス~エレクトロ・リヴァイヴァル──を形成する原動力となったのも事実でしょう。それと同時に、彼女には各方面からライヴ出演のブッキングや客演のオファーが舞い込むわけですが、そのなかで敬愛するミッシー・エリオットやティンバランドと堂々の共演も実現。まさにシンデレラ・ストーリーのようなキャリアを経て、現在に至ります。
「ティンバランドもミッシーも凄くリスペクトしている人たちだし、とてもいい経験をさせてもらった。自分みたいなスリランカのド田舎から出てきた女の子が、こんなビッグネームのアーティストたちといっしょに仕事をできるなんて前例もないし。彼らと作った音楽がどうこうというよりは、いっしょに作業したって言えること、そして実際いっしょに何かを作れたことを誇りに思っているし、自分でも自信に繋がったわ。でも、もうそういう経験はしたし、だいたいどんなものかわかったから、今度は自分の道を進んで自分のストーリーを作っていきたいの」。
さて、〈M.I.A.がセカンド・アルバムを発表〉というニュースがネット上を駆け巡った際、当初入ってきた情報は〈ティンバランドが全面的に参加〉といったものでしたが……彼女の言う〈自分の道、自分のストーリー〉とは、どんなものだったのでしょう?
「もともとティンバランドとアルバムを丸ごと作る予定でいたんだけど、アメリカの労働ビザがなかなか下りなかったから、いっしょに作業をすることができなかったの。そうこうしているうちに、自分でも寺院で使うような古い楽器の音をインドで録ったり、トリニダードやアフリカでスウィッチといっしょに音を作りはじめていて。いざティンバランドとレコーディングできることになった時、すでにいろんな曲が出来上がっていて、いまさら彼と最初からコンセプトを練って作るというわけにもいかず、1~2曲しかいっしょに作らなかったのね。“Come Around”は本当は私のアルバム用に作った曲なんだけど、彼も自分のアルバムに入れたいということになって、結局シェアすることになったのよ」。
デビュー作で一定の成功を収めたアーティストに前作以上のバジェットが準備されるのは当然ですが、彼女の場合、ティンバランドとのコラボが延期となった段階で、当初のシナリオに大きな加筆修正を加えたようです。どうせ予算があるならそれを旅費にあてて、〈世界〉をスタジオにしてしまおう!と。
結果として登場したセカンド・アルバム『Kala』収録曲のほとんどは、インド、トリニダード、アフリカ、オーストラリア、USのボルティモアなどで制作され、ヴァージニアでティンバランドと吹き込んだ楽曲は先述の“Come Around”のみ。“$20”というトラックには、そんな彼女の姿勢を象徴するようなフレーズがあります──〈I put people on the map that never seen a map(私は地図を見たことがない人を地図に登場させる)〉。
「必ずそうしなきゃって決めてるわけじゃないけど、すでにチャンスを掴んでいる人たちと機会を設けて作業するよりも、まだチャンスを与えられていない人たちと組んだほうが楽しいし、いろんな発見や経験ができると思うわ」。
▼『Kala』に参加したプロデューサーの作品を一部紹介
スウィッチのシングル“A Bit Patchy”(Dubsided/Data)
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カテゴリ : インタビューファイル
掲載: 2007年08月16日 11:00
更新: 2007年08月30日 18:05
ソース: 『bounce』 289号(2007/7/25)
文/リョウ 原田