INTERVIEW(2)――ヴィジュアル系のイメージを広げたい
ヴィジュアル系のイメージを広げたい
――では、改めてバンドのキャリアを振り返った話も訊いていきたいんですけれども。まずバンドが始まったのは2000年の元旦ですが、そのときにはいまの状況に続くというイメージはありました?
柩「その時は自分たちのキャパシティーもいまより小さかったし、先のことは見えてなかったと思いますね。当時は、〈次のライヴをどうしよう?〉とか、それくらいの距離までしか見えてなかった」
YOMI「仙台で有名になれればいいかっていう、その程度でしたね」
柩「武道館なんて夢のまた夢に近いくらいのものだったと思います」
YOMI「自分としてはただ、遊びの延長線上で始まった感じだったんで」
――その頃に憧れていた存在というとどうでしょう?
柩「俺はいまでも変わらないんですけど、X JAPANのhideさんですね」
YOMI「僕もX JAPANとLUNA SEAがきっかけでしたね。それでバンドを始めました」
――最初にバンドの転機が訪れたと思うのは?
柩「結成して1年目ぐらいのときに、ドラムがRUKAさんになったんです。もともと先輩バンドをやってたんで、ツアーの経験もある人で。俺らは当時仙台でしかライヴをしたことがなかったんですけど、それから東京でライヴをやったりもした。そこが大きかったと思いますね。そこから広がっていったというか」
――そこからメジャー・デビューまではトントン拍子で進んでいった感じですか?
柩「そういう感じではなかったよね」
YOMI「普通に、お客さんがいないイヴェントもあったし」
柩「お客さんが5人だったこともあった(笑)。最初にインディーズでCDをリリースしたら、予約で1,000枚売れたんですよ。でもライヴの動員が変わらない。〈あれ? 誰が買ってるんだろう?〉って思った時期はありましたね。ただ、2枚目のシングルを出してライヴをやってるときに、急に動員が増えて、それくらいからワンマンやってもどんどんお客さんが来てくれるようになった。そこからメジャーはガッと行けた感じはありますけど。そこまでは謎が多かったかも(笑)」
――その頃には、自分たちの武器とか強みはどういうところにあると思っていました?
柩「それはまだ正直掴めてなかったと思いますね」
YOMI「でも、あんまりオカシイことをやってる人はいなかったよね。いわゆるヴィジュアル系って、笑顔はダメというか、ダークな感じがまだ多かったので。最近はそうでもないですけれど、当時ふざけた写真を撮ってたのはウチらくらいだったし。自分らとしてはそれが売りだったのかな」
――そういう打ち出しができたのは、自分たちの性格としてそういうことがアリだったから?
柩「どうしても、どっかでふざけたくなっちゃうんですよね(笑)。茶化すわけじゃないけど、ヴィジュアル系のイメージを悪いほうに持っていくわけじゃなく、広げたいというか。そういう気持ちはありましたね」
――じゃあ、バンドのなかにルールとか縛りがあったら不自由な感じになってたかもしれないですね。
柩「縛りはバンドのなかでそんなに決めてなくて。唯一あるとしたら、ハゲたら脱退というくらい(笑)。まあ、メンバーにもバレずに隠し通せてるんだったらOKですけど」