INTERVIEW(3)――すでにあるものを信じたくなかった
すでにあるものを信じたくなかった
――実際、メジャーからのファースト・アルバム『ヒロシゲブルー』から、音楽性がグッと広がっていきますよね。
hozzy「コードを覚えていった時期ですね、いろいろと」
藤森「気持ちいいコードね(笑)」
hozzy「〈パンクにはない響きがここにある!〉っていう。モーリー(藤森)も音楽理論をどんどん勉強してたし」
――より高度な音楽理論を採り入れてた時期だった、と。
藤森「そういうことが楽しい時期でしたね。」
hozzy「もちろんパンクもすごい好きなんですけど、透明なものだったり柔らかいものだったりとかって、パンクだけでは表現しづらいと思うんですよ。生活してたら、いろんなことがあるじゃないですか。たとえば〈悲しいと嬉しいの間にある気持ち〉とか。それを曲にしたいなって思ったら、コードの響かせ方やフレージングも自然と変わってくるっていう」
――オーディエンスも驚いてたんじゃないですか?
田中「〈あ、藍坊主、変わってきた〉っていう反応をいちばん感じたのは、『ヒロシゲブルー』から『ソーダ』(2005年のセカンド・アルバム)あたりなんですよね。自分たちのなかにも〈音楽が変化してきた〉っていう意識があったし、パンク系のイヴェントに出てても、パンクじゃない曲がどんどん増えてきて。当時ライヴに来てくれた人のなかには、戸惑いもあったんじゃないかな」
藤森「うん」
田中「その頃はまだ、自分たちにも葛藤があったと思うんですよ。〈何でこんなふうに変わるんだろ?〉って。でも、いまは違っていて、何か変化があっても〈そういうもんだ〉って思ってて」
――なるほど。確かにアルバムのごとに変化してますからね、音楽性も制作のスタイルも。
hozzy「そうですね。『ハナミドリ』(2006年のサード・アルバム)のときは、〈4人でいっしょにガッと作ろうぜ〉って感じになってて」
渡辺「そうだね」
hozzy「その前までは俺か藤森が曲を作ってきて、それをバンドで合わせてたんですよ。でも、『ハナミドリ』のときはあらかじめ4人で話したんですよね。〈次のアルバムは卵みたいなものにしよう〉とか〈楕円形で、温かくて〉とか」
田中「そういう話をすると、〈うん、俺もそういうものが必要だと思う〉ってことに自然となっていって」
――徐々に実験的な要素も増えてきますよね、この時期から。
hozzy「そうですね。『フォレストーン』(2008年の4枚目のアルバム)あたりになると、人から〈わかんない〉って言われると〈うるせえ、黙れ〉ってところまでいっちゃって(笑)」
田中「ピリピリしてたよね」
hozzy「拓郎に頭突きしたりとか」
渡辺「SHIBUYA AXのライヴ・リハのときだよね(笑)。“言葉の森”を作ってた頃」
hozzy「あ、そうだ」
渡辺「俺、空気読まないでくだらねえ冗談言ったりするんですよ」
hozzy「で、俺がブチッてきて。よくケンカしてましたね、年齢の割に」
――音楽を探求するあまり、迷宮に入りかけてたというか……。
hozzy「あの……言葉そのものだったり、音楽そのものだったり、すでにあるものを信じたくなかったんですよね。〈音楽とはこういうものである〉とか〈ポップスって、こういうカタチ〉ということだったり、藍坊主がそれまで作ってきた曲も含めて、土台みたいなものを疑わないで音楽をやり続けるのは間違ってると思ってて。『フォレストーン』に入ってる曲とかって、調性を無視してたり、どこがキーかわかんなかったりしますからね。わけわかんねえって言われても構わない。ぜんぶ曲にしてアルバムにブチ込んでやる!っていう。当時のレコード会社の担当の人によく怒られてました」
田中「ハハハハハ!」
hozzy「ただ、それをやらないと、スタンダードと言われるような曲が作れないと思ってたんですよね」
――『フォレストーン』の時期、藤森さんはどういうスタンスだったんですか? hozzyさんの楽曲とのバランスを取ろうとしてた?
藤森「どうですかね……いや、かなり影響を受けてたんじゃないですかね。もちろん、まずは自分に響くというか、自分が〈これ、いいな〉と思う曲を作るんですけど、メンバーからの影響もかなりあったと思いますね。いっしょにいて話してるだけで、何か伝わってくるものもあるし」
――音楽以外の部分でも?
藤森「そうですね、考え方だったり」
hozzy「リハの後とか、いろいろ話してるからね」
渡辺「振り幅がすごいんですよ。下ネタから、政治の話まで。いつスライドしたかわかんないくらい」
藤森「放課後です(笑)」