インタビュー

STARDUST REVUE 1981-2012(Part.3)



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[ interview ]

ニュー・アルバム『B.O.N.D.』のリリースを控えるSTARDUST REVUEの歴史を辿るロング・インタヴューも、いよいよ第3回目に突入。今回は、2000年代のエピソードにフォーカスした内容でお送りする。

2001年、ヤマハリゾートつま恋にて〈100曲+1曲ライブ~日本全国味めぐり~お食事券付〉なるイヴェントを開催する(後に、〈24時間でひとつのグループがもっとも多く演奏した記録〉としてギネス世界記録に認定される)など、21世紀に入ってもライヴ・バンドとして相変わらずの屈強さを見せつけていた彼ら。一方、この2000年代には6枚のオリジナル・アルバムを制作し、メジャーを離れてインディーでのリリースも経験した。フロントマンの根本要はこの時期に楽曲の質がかなり変わったと話すが、果たしてバンドには何があったのだろうか?



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熊谷昭との出会い



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――21世紀を迎えた頃、いったいどんなことを考えていたのか教えていただきたいのですが。

「2000年、2001年の頃ですよね。ちょうど事務所を独立した頃だったから、よく覚えてますよ。そろそろ自分たちのことを自分たちだけでちゃんとやろうと思ってた時期でもあるので、独立を考えたんだけど、正直簡単に独立できると思わなかった。お金もないし、会社にずっと迷惑をかけていると思っていたから。ところが、いまの社長たちがいろいろと計算してくれたら何とか大丈夫そうということで、会社ともちゃんと話し合って意外とあっさり独立を認めてもらいました。ホント感謝しています。とにかくちゃんと責任の取れる音楽活動をしたくて。何かを決めるのも誰かに頼らずにね。それにはちょうどいい時期かなと思ってたんです。そんななか、俺はSTARDUST REVUEってバンドをもっと知りたいと思っていたんですよ。要するに、〈俺が知らないスタレビ〉を誰かに教えてもらおうと。独立して最初のアルバム『Style』はインディーでのリリースになったんだけど、まあそれは会社から独立して、いきなり他社と契約するというのは気が引けたし、それにインディーには前から興味もあったんだよね。で、ある程度自由にアルバム作りもできるということから、誰かにプロデュースしてもらおうと思ったわけ。STARDUST REVUEが何物かを説明してくれる人を探したんです。鏡を見れば自分の姿を目にすることができる。でも後ろ姿は見たことがない。だから、これまで見えなかった部分も含めて、スタレビはこういうバンドだってことを教えてもらおうと思ったんです」

――ほ~。

「そこでウチの社長が〈この人おもしろいんじゃない?〉って紹介してくれた人が、エレファントカシマシを手掛けていた熊谷昭氏だった。社長はスタレビをもっと売るために、俺はもっとおもしろいスタレビを見つけるために、彼と組んで『Style』を作ることになるんだけど、その過程で得た力は大きかったなあ……。メンバーとの関係まで上手くいったとは言えないけど、僕個人はものすごく影響を受けた。いちばんは歌詞に関しての〈思い〉。僕は最初、熊谷さんに〈後ろだけでなく逆立ちさせてもいいから、スタレビの全部を僕らに教えてくれ〉って頼んだの。そうやって話してるなかで彼が言ったのは、〈要さんは人生論にしても政治に関しても、社会に対する興味とかはすごくおもしろいのに、詞を書くと全然おもしろくないですね〉って言われた(笑)」

――直球すぎる意見だなあ(笑)。

「熊谷氏いわく〈普段は社会的なことだろうが何だろうが、ちゃんと音楽を絡めて話をしているのに、何で詞にそれが乗らないの?〉って。それから〈せっかくおもしろい言葉を持ってるのに、どっかで聞いた言葉ばっかりじゃもったいないでしょ〉とも言われた。確かに、このサウンドにはこういう詞、と言うようにサウンドとマッチした詞を狙っていたのは事実だったからね。で、〈結局、この詞で何が伝えたいの?〉って言われて、え~!って……そりゃ落ち込んだよ(笑)。もうそこからです、詞に対する思いが変わったのは。40過ぎてからあんなに怒られたことなかったもん。ただのお坊ちゃまでしたから、僕は(笑)。確かにそれまで詞に対しては、そこそこのところで収めていたかもしれない。大事なのはあくまでもサウンドだと思ってたからね。でも、一度そこに気付くともっともっと行きたくなる。そんなふうに、はみ出してもいいから自分の思いを出そうと思えたのは初めてだったんです。次のアルバム『Heaven』も彼と組むんだけど、そこでもメインは僕と彼の戦い。どれだけいまの自分を正直に書けるか。そんな状態だからバンドの存在を無視したところもあったと思うんだよね」

――で、結果的にその2枚が熊谷さんとのタッグとなるわけですか。

「そう、社長や僕以外のメンバーが望んでいた〈もう少し売れる〉という部分では大して変わらなかったし、何より他のメンバーから僕のプロデュースでやりたいという希望もあったので、次の『AQUA』から僕がプロデューサーになるんだけど。でももし『Style』と『Heaven』がなかったら、僕自身がとっくにへこたれていたと思うんだ。曲は書けても詞が書けなくなっていたんじゃないかな。新作『B.O.N.D.』でも、とっても興味を持って、思った以上に詞が書けているのはやっぱり熊谷さんのおかげ。あの出会いがなかったら、また独立という選択をしていなかったなら、きっとこの10年はそれまでの20年を食い潰すだけの年月だったんじゃないかな。信じられないかもしれないけど、この10年間のスタレビがいちばん充実していておもしろいんだもの」

――いままでこだわっていたものから解放されて、もっと自由になれたってことなんですかね。

「あのね、逆にこだわらなかったことにこだわるようになったのかもしれない。僕はそれまでのSTARDUST REVUEに不満があったわけじゃない。自分にできそうもない、あるいはあんまり興味ない部分は人に委ねてきた。例えば、売れるためにもっといい詞が必要と言われれば作詞家の方にお願いしてきたし。それによって素晴らしい作品をいただき、タイアップとかももらえた。ところが5年、10年経ってからわれわれのスタンスも少し変化したなかで歌うとなると、多少の違和感も出てくるんですよ。それで、やっぱり自分の言いたいことを乗っけていかなければいけないんじゃないかと思うようになった。そういう意味で、STARDUST REVUEは80年代に作詞家の人の力を使ってなんとなく歌詞を勉強させてもらい、90年代から自分たちの言いたいことが多少出てきて、自分たちで詞を書くようになった。でもまだ中途半端な状態で書いていたから、いまいち突き抜けられない。そんな時に新しいプロデューサーに出会って、僕は次に向かうエネルギーをもらった。やっぱり出会いなんですよ。その出会いがいつもスタレビを育ててくれたんです」


カテゴリ : .com FLASH!

掲載: 2012年09月05日 18:00

更新: 2012年09月05日 18:00

インタヴュー・文/桑原シロー 写真提供/アップ フロント ワークス